rosa8719の今日もご機嫌

59才で2回目の乳がんに。息子二人は独立し夫と二人暮らし。一日一日をご機嫌に。

積もる話があり過ぎて(1)

昨日の日曜日。会社勤めをしていた頃の先輩二人と久しぶりに会ってきた。二人とも私より2才年上である。

久しぶり、なんてもんじゃない。20年以上?電話で話したことはあったが、実際に会ったのはいつのことだったか。「rosaちゃんの子供さんが小さい時に会ったよね?」なんて話も出ていたが。

「毎年、年賀状をもらう度に、今年こそは!と思っていたけどなかなかねー。rosaちゃんが声掛けてくれなかったら、こうして3人で会う機会もなかったね。本当にありがとう!」と先輩二人とも感激していた様子。

さすがに二十数年の歳月分、それなりに老けたお互いの姿にびっくりしつつも、話してみると昔のまんまの人柄で。気心知れた元同僚として、途切れることなくお喋りは続いた。

話題はやはり東日本大震災のことになった。

Hさんは名取の実家が津波で流され、お父さんも津波で亡くされた。辺り一面、跡形も残っていないほどだったという。家の玄関のタイルだけが残っていたという。

地震直後はお父さんは生きていたらしく、近所の老人たちはみな近くの公民館のような所に集まったそうだ。そこで90才くらいの人たちが、「今まで90年も生きてきて、津波なんて聞いたこともないから、きっと大丈夫じゃないか?」「そうだ、そうだ。自宅に戻って片付けをしよう。」と話したことがキッカケで、それぞれに自宅に戻り、その直後に津波にのまれたとのこと。“正常性バイアス”という心理だ。

Hさんのお父さんは大工さんだったので、仕事用の車と、お兄さんの車、弟の車、合計6台流されたとのこと。そのうち1台は買ってから1年も経っていなかったもの。車に関しては保証などはまったく無かったとのこと。

弟さんの亘理の家も津波で流された。お兄さんは手首の骨折で入院中だったので助かった。兄嫁さんもいつもは午前中に病院に行くのに、この日はたまたま午後に出掛けたので助かったとのこと。しかし、この病院も1階部分は津波でやられてひどく壊れてしまったそうだ。Hさんの自宅は無事だった。

「うちは家全体が傾いちゃって、大変だったのよ!基礎は大丈夫だったんだけど、家の玄関が見てわかるくらい斜めになってて。一度外に出たら、玄関の戸が閉められなくなって。ガラスを壊して入ったのよ。家全体を持ち上げて直す工事をしてもらって、1200万円も掛かったのよ!」とOさん。Oさんの自宅の辺りは地盤がゆるい所だったようだ。

「Tさんが地震で亡くなったの、知ってる?私、お葬式に行って来たのよ。」と、Oさんからまたまたびっくり発言が。Tさんはさらに年上で私が新人だった頃、お局的な立場の人だった。「Tさんは名取に一軒家を建てたばかりで、まだ1年も経ってなかったはず。場所的には津波が来るような危険はない地域だったのよ。お葬式の時に、ご主人からいろいろ話を聞いたのよ。」

地震のあと、パート先で自宅に帰るように言われたんだって。それで、自宅にいて倒れた家具やガラスの破片を高校生の長男さんと二人で片付けていた時に津波が来て・・・。長男さんは奇跡的に助かったんだけど、Tさんは行方がわからなくなって。1ヵ月くらいしてからご遺体が見つかったんですって。長男さんが当日のTさんの服装を覚えていたから。」

長男さんは沈んでは浮かび、また沈んでは浮かび、を繰り返し、気がついたらどこかの家の屋根にしがみついていたそうだ。屋根に登って寒さに震えながら、「おーい、誰かー、おーい、助けてー。」と声を出していたら、自衛隊が救助してくれて避難所に連れて行ってくれたそうである。

「母も流されたけど、どこにいるかわからないんです。」「そうか。もしかしたら、救助されて避難所にいるかも知れないからね。さぁ、これを着て。暖かくして。」自衛隊の方々は一生懸命だったとのこと。

「でもね。友達の息子さんが自衛隊員で、無我夢中でご遺体を運んだりしたらしいんだけど。1年くらい経ってからPTSDになっちゃって。精神的に大変だったみたい。」とOさん。やはり・・・そうだろうな。

報道特集で見たような話をたくさん聞いた。今、私が住んでいる所は家の被害もほとんどなく、津波の影響もまったくないが、会社勤めしていた頃の知り合いは、被災地に近い人も多くいる。まだ知らないだけで他にもいるかも知れない。

3年経った今だからこそ、こうして話も出来るのだろう。Hさんは大震災の前年にお母さんを亡くし、震災でお父さんを亡くし、翌年にはご主人のお父さんも亡くなられたとのこと。こちらも震災の影響かも知れないとのことだ。続けて3件のお葬式は、本当に大変だったと語っていた。